陸軍将校であった祖父の戦争体験

新任少尉~大尉

 

運命病、吾と吾身を励まして

今年も生きよと花の種子(たね)まく

 

戦中死生観を論じ「殉国」一人で国を背負い込んだように錯覚したあの日は遠くなりぬ。

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男児兄弟三人中、兄と弟二人は正に「殉国」を何の疑いもなく信じ込んでいた。

兄との惜別は千葉野戦砲兵学校での面会が最後であり、弟は航空士官学校卒業直後、特攻隊編入になり、弟の方より小倉、防空旅団司令部に面会に来てくれたのが最後であった。

人生解雇して哀楽悲喜不運連続に脳裡に浮ぶ。

されど戦中、期間は短いけれども、実像は随分ぼけては来たが強烈な印象として、不思議な繋りで夢に出てくる。

悪夢。悪夢。

初陣はやはり今仍お(なお)はっきりと想起される。

吾が青春の血は唯一途に滅私奉公に燃えていた。

何ものも恐れるものはなかった。

昭和十五年日軍の進撃を阻むため、徐州の大激戦後、蒋系軍は自らの手で大黄河の堤防を鄭州(原文はてへんに奠)東方付近で何ヶ所も大爆破した。

大濁流は河底が高くなっていた場所であったので、大都市開封を襲い北支の沃土は大湿地となり一年余り乾かず、本流も定まってなかった。

昭和十六年末乾期到来、北支の師団は開封に兵站基地を前進させ、師団(兵員約壱万)規模の作戦が開始された。

吾等見習い士官は、其年十月に配属部隊に着任し、中国内での戦斗(戦闘)の特異性研鑽のため、石家莊(北支)で集合教育中、至急帰隊を命ぜられ、帰途済南の北側の鉄橋の直前で夜行列車であるが、突然先頭列車が鉄道爆破により黄河に突込み、幸い後尾車の吾等は、軍司令部配慮によりトラックで漸く、原隊の駐屯地徐州に帰隊した。

その翌日が出陣式である。晴れがましく、厳かであった。

が、着任早々。联隊(連隊)本部付。

下士官一、兵三名、兵器小銃三、三号無線一機、吾を迎えた任務は連絡将校。(前線歩兵联隊本部と我が野砲联隊本部間の連絡が任務)

作戦開始地点から長途の行軍が続いた。

作戦は行軍。行軍。約一ヶ月湿地の中を西進するだけ。

毎日毎夜、両者本部間の緊密な連絡を絶やさぬ為の気苦労は大変。

足の軽い歩兵はどんどん進撃する。

後方の砲軍は、ぬかるみの中で、舟型そりを作りその上に砲車を乗せ人馬一体泥まみれでの進軍。

だんだん両者間が遠くなる。

無線の到達距離は、当時のものは機能が悪く、せいぜい、二粁(キロメートル)位だった。

重要事項は歩いて文書で届けねばならぬ。

全身泥んこ。乾く暇なし。眠る時間僅少。

遂に濁流渦巻く大黄河(新しい流れで堤防はなく、抉り取られた岸があるのみ)の対岸に敵のトーチかが無数に見える処まで前進し、後続野砲の到着を待った。

其間、対岸まで約三キロはあったと思うが、河底偵察が続けられた。

工兵の仕事である。

鉄舟が集り始めた。

歩兵の同期生がいた。

特攻小隊長になり、一番乗り橋頭保占領をすると、にこにこしていた。

彼の言によれば、联隊渡河の直前、予め偵察した浅瀬を求め、十名づつ互に縄で腰帯を繋ぎ、隠密に渡河するらしい。

然し河の流れも河底も毎日変わっている。

予定の暗夜、準備万全。払暁渡河作戦が開始された。

今思えば全く無謀極まる特攻小隊が最初に、渦巻く濁流の中に入って行った。

三時間余りの後、銃声、機銃音が暁の静寂を破り黄色信号筒が空高く尾を引き、満を持して待った兵員満載の鉄舟がゴウゴウと爆音を発し、一斉に強硬渡河が始まった。

砲兵の支援射撃、敵の狂った掃射。

雷鳴天を覆い、その轟音耳を裂く。

吾等も第一回渡河舟艇の隅に便乗さして貰った。

文字通り敵弾は雨、あられ。

鉄板に当る無数の弾音、水面から跳ね上がる大繁吹(しぶき)、不気味である。

艇内の薄明りの中は鉄かぶとがびっしり並んでいる。

「あっ。」「あっ。」悲鳴があった。

被弾した兵員だ。

すぐ近くの兵は、ギクッと前につんのめった。

胸から背への貫通銃創。

見る見る顔は痛みにこわばり、土色に変わってゆく。

対岸に着くや否や。一目さんに走り敵陣に突っ込む。

一発も撃たぬ。

神技?

当時、戦さ馴れした古参現役兵は強かった。

明るくなった時には既に敵影はなく、無数の重火器が死体と共に残されていた。

 

山砲(フランス・シュナイダ社製)も七、八門あった。

前線派遣師団参謀の命令により「野砲部隊は先遣要員を渡河させ、捕獲砲二門を以て師団直轄の小隊を編成すべし・・・。」

早速渡河第一信打電。

昼食は激戦のあと、彼の特攻小隊長を訪れ、歓談した。

彼は拍子抜けに明るい人格ではあるが、「部下を今暁一分隊(十八名)濁流の中に呑まれ失った」と暗い顔をしていた。

 

進軍は続いた。約四十日。年末も正月もない。

唯正月は陣中歩兵联隊本部の皇居遥拝式に参加して、正月かと感じた。

毎日の戦斗前進は悲惨の極、筆舌に盡きる。

敵弾に味方兵が倒れる。

血を見る若者は激する。

罪なき良民の家も焼く。

ゲリラか良民か?区別はつかぬ。

逃げる者は総じてゲリラと見える。

掃射される。

田園は踏みにじられ、作物、家畜は無償徴収、死体は顧みる人なし、ガスで風船玉のようにふくれて転々としている。

我が国も亦。米国の無差別絨毯爆撃を受け、爆弾死体の散乱は酸鼻の極みだった。

戦いは悪夢。悪夢。

連日の睡眠不足と強行軍。

泥くさい飲水。

赤飯(こうりゃん飯)そして全身ほこりと汗と痒いダニ。

湿地行軍で水虫になったようだ。

 

明払暁。敵参千の籠る中牟城攻撃。

派遣師団参謀の命令書「突撃に対する支援射撃命令」を受領し、先ず打ち合わせのため砲兵部隊より「至急作戦指揮官ハ前線指揮所ニ先行スベシ」と打電。

徒歩で、後方の母隊本部に急行し命令書を無事届けた。

久しぶりに母隊の夕食をご馳走になり、大隊長から労をねぎらって貰い老酒をほんの少し口にした。

本日の任務は完了。いい気分で五時間程眠った。

翌朝の深夜一時頃出発。前線は近い筈だ。

一時間もすれば楽に着く距離である。

予定地に着いたが唯一人味方の影も音もなし。

予想はしていたが、歩兵の第一線は前進、既に攻撃発進戦へ展開終っていた。

作戦地図は手許にあるし前線本部の位置の方向距離は確定していて、一寸一服。

磁針で精確に進路を計り、さあ出発。

時計は午前二時三十分。

急に前方で、騒音?

ガチャガチャギシギシ靴音、金属音、車の軋み音。ロバの息声。

じっと耳を澄ますと中国語の殺し声。

部下の緒方伍長が「小隊長!敵兵ですぜ」兵三名も地上に伏せた。

伏せて地面に耳を当てた。

大舞台の移動音がよくわかる。

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手探りで後退、隠れ処。

屋根なしの民屋の土壁に屈み急遽作戦本部に打電開始。「敵ハ中牟ノ東南約ニキロ地点ヨリ、南西ニ向イ移動中、兵数未定ナルモ大部隊ナルガ如シ」

 

手動発信の騒音と、発信音に敵兵は吾等の位置を知り、至近距離の広い闇から無茶苦茶に射たれる。

一斉に火が吹き、怪体な声。声。

ビシビシッ。

頭から土を被る。

生きた気はしなかった。

外に逃げられず。じっと伏せているだけ。

逃げる敵。よもや突入はしないだろう。

右手に拳銃の安全栓を外して握りしめた。

部下にも弾込め、剣着けを命じた。

長い時間に感じた。

やがて南西方向で銃砲声が響き夜間の進撃戦が始ったらしい。

前線は急に集結、我方の予備隊が先ず敵の後尾に喰いついているらしい。

明方になって暫く前線本部を訪れた。

そして歩兵の後を追った。

銃剣で刺された死体が血の海となって無数に転がっていた。

暁の遭遇戦は残忍な光景であった。

昼頃再度、以後の作戦命令を母隊本部に届けた。

所属联隊副官より、前夜の適切な報告で敵に殲滅的な打撃を与えたり。と賞され後日師団副官よりも其旨の文書を貰ったが、何んだか殺人助長罪を侵したようで、今でも気分が悪い。

悪夢。悪夢。

先輩将校からは厭味な中傷もあった。

「敵中でなぜ突入しなかった。」又「部下を殺されずに済んだが、なぜ逃げなかったか。」

矛盾だらけの戦だ。

 

昭和十七年ニ月、作戦終了。

駐屯地徐州に帰隊。

岡山十七師団留守原隊より「新入現役兵が一週間後に上海に上陸するので、出迎えよ。」という联隊命令で上海ウースン(呉松)に出発。

新兵さんを預かって軍仕立ての特別列車で帰って来た。

以後中隊内では一年間初年兵教育係将校として張り切った。

わが新兵さんは初めての真の部下であった。

可愛いかった。

厳しい訓練計画は立てたが、なかなか障害が多い。

その第一は万年二等兵の古兵(ふるつわもの)。

横暴。勝手気侭。内務班は彼らに荒らされていた。

軍隊の最恥部であった。

従来の慣習一掃せねば・・・。

将校集会所の昼食会で文書により联隊長に意見具申した。

「私的制裁厳罰。内務規定大改定。」

反応は予想どおりであった。

「軍隊は明治以来の伝統がある。」「新任早々戯言は控えい。」「四(五)年でもして中隊幹部になってから発言せい。」

大非難は覚悟していた。

 

早くも二ヶ月経過し新兵の一人萩原二等兵が夜の点呼で不在。探した。

兵営内外見当たらぬ。

週番司令の指令を求め他中隊より応援を得て、営外の旧飛行場端の楊柳の林の中で、青ざめた気息絶えそうな彼が発見された。

たばこ一箱分をほぐし、水で全部飲んで首つり自殺を計ったらしいが、樹に辿りつき、馬の引き索を持ったまま、そこで眼が暗み倒れたらしい。

彼は馬好きで馭者班になり喜んでいたが、乗馬があまりに上手な故に、下手な古年兵が厭味でいじめ、毎日理由もなく殴り、何かにつけ、仕事をやらせ、早飯でないと普通でも飯が終らぬ初年兵の時間だ。

余分な仕事で度々飯抜きだったらしい。

之がきっかけで中隊内は内務班大改革がやり易くなった。

驕慢な万年一等兵を約六名程全部初年兵教育係にした。

中隊長も先輩将校も反対したが、現役青年将校は一直進。

予備役の言分糞喰えと、強行した。

彼ら一等兵古兵を掌中にした。

なかなか彼らは腰が重かったが技術は大したもの。

砲の扱い操作、馭法。新任の伍長は到底及ばない。

彼らを誉めそやして乗り気にし、日曜日は殆んど彼らと交き合った。

徐州新市街には当時随分、兵相手の酒場、料亭、飯店が多く、将校といっしょだったら遠慮なく、他の部隊の上級者(今までは上等兵とトラブルを起こしていた。)を隅に追いやり、長時間居座れるので喜んでくれたが、給料は赤字続きになった。

でも初年兵訓練は大変楽になった。

助手は増えるし、教育訓練のアドバイスはしてくれるし、特に銃剣術の教育では先生が沢山で、メキメキ上達し联隊の一番になった。

 

花に嵐、凪に風は世の常。

大事件が勃発した。

万年一等兵が教育係になり彼等は、急に得意がって下士官との折合を最悪にした。

兵器係下士官の謀略と考えられる事件?発生。

 

訓練も上々の成績で一年目を迎えた。

見違える位、内務班の融和が醸し出され、私的制裁が何時しか消えた。

古兵が初年兵を保護したからである。

联隊長の内務検閲は最高で終了した。

次は十日後実技検閲。

一ヶ月も同じ動作の反復。

該課題は設定状況に対し、観測、予定地への放列進入、試射開始まで。

充分以上の150%位の自信を皆持っていた。

準備手入れも前日遅くまで遺漏がなかった筈である。

模擬弾は特に自ら各分隊五発宛、忘れないように立合っていた。

晴れの検閲当日、師団司令部からも作戦参謀少佐の顔が見えていた。

演習開始、一分の隙もなく兵の動作は確実に動いた。

最後の号令「瞬発信管、第一発射。」

「一発」凄い轟音、実弾が飛び出したのである。

現場の混乱は読者の想像に委ねる。

絶対起きぬ事、100%安心していた事。

錯誤は考えられぬ。

が、錯誤として糾弾され、指揮官としてその罪は免れぬ。

厳粛に責任罰を甘受した。

熱血の若き、然も联隊随一を目標に張り切っていた青年将校の挫折感は想像に絶する。

明治十年联隊旗を失った乃木少佐の心情ではないが、早くも大きな汚点がつき、联隊長始め上司に大きな迷惑をおかけして申訳ない。という心情では、乃木少佐の心情もかくありきと思った。

せめてもの幸いには、信管だけ演習用であり爆発せず、着弾地であった徐州郊外の民屋では、黒豚が騒いだだけであった。

先輩も同僚もそれ見よがしか。又は軍の厳しさか。何の慰撫の言葉はなかった。

不思議な世界だ。

こっちも将校集会所の昼食会で、強気発言をしてきただけに、上司が煙たく、昼食に行くのが辛かった。

 

太平洋戦は制空権が勝敗の帰趨を握った。

開戦以来日本軍の航空機搭乗員の消耗は甚だしく、吾等同期生も初期の兵科より航空科に転科した者は約半数以上になっていた。

 

近代戦になるに従い、前線歩兵部隊は自ら山砲級火砲を装備し、野砲の必要性は漸次、少なくなりつつあった。

必然的に吾にも辞令が発令。

「航空科偵察要員といて、東部方面軍司令部付を命ず。」を受領した。

埼玉県朝霞航空士内将校集会所に赴いた。

身体検査で耳鼻科不適合の赤印が押されていた。

翌日宿舎に届けられた文書は、「九州防空司令部付を命ず。」であった。

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