宮島みつやって誰だ?

左翼メディア「リテラ」に「宮島みつや」なる人物が現れた・・・いや、以前から寄稿していたのかも知らないが私が彼の文章を目にするのは今回が初めてである。

「宮島みつや」でwikiを検索しても名前が出てこない。

フリーのライターなのか、ジャーナリストなのか、はたまた別のペンネームで活動している人物が新たにペンネームを作って活動しているのかは定かではないが、「酒井まど」、「水井多賀子」に引き続き、超新星のように現れた無名に近いペンネームだと思う。

リテラにおいての彼の主張の内容が面白いので取り上げておく。

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大河に『花燃ゆ』ごり押し? 安倍首相が愛する「長州藩」はテロリスト集団だった! 2015.02.22 リテラ

安倍首相にとって、その“血”は誇らしくて誇らしくてたまらないものらしいが、しかし、長州に魅かれているのは、安倍首相だけではない。

「長州藩」は幕末を描いた歴史ノンフィクション、小説などでも常に、明治維新の立役者であり、日本の近代化の礎を築いた存在として描かれてきた。薩長による維新が達成されなければ、日本は江戸の封建体制のまま、欧州列強にのみこまれ、植民地にされていたであろう――こうした説を、多くの人が今も信じているはずだ。

ところが、その長州藩を“残虐非道のテロリスト”呼ばわりする本が登場した。今年1月に改訂された『明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~』(原田伊織/毎日ワンズ)だ。

明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト

本書は冒頭から「倫理性という観点から長州テロリストの犯罪を列挙し、百四十五年にわたってそれを包み隠してきた「官軍教育」(=現在の歴史教育)を否定」することを宣言する。

学校では、長州の「維新の志士」たちが近代日本の扉を開いたと教わるが、著者によれば、長州は黒船来航以降、開国路線に舵をきろうとした江戸幕府に反目し、攘夷を唱えた首謀者だという。そして、維新志士たちは大義名分をいいことに、さまざまな「テロ」行為を繰り広げていたと、その犯罪を列挙するのだ。

「桜田門外で水戸脱藩のテロリストと薩摩藩士に暗殺された大老井伊直弼の彦根藩ゆかりの者の暗殺(長野主膳の家族など)」

「おなじく彦根藩ゆかりの村山可寿江の生き晒し(女にも容赦しなかった)」

「京都町奉行所与力やその配下の暗殺(賀川肇など)」

「幕府に協力的とみた商人への略奪、放火、無差別殺人」

「佐幕派とみた公家の家臣たちの暗殺(あまりに多数。これらは公家に対する脅し)」

「儒学者の暗殺(儒学社池内大学など)」

「その他、仲間内でハクをつけるための無差別殺人」

これらを実行したのは、圧倒的に長州の荒くれ者たちが中心だったという。「彼らのやり口は非常に凄惨で、首と胴体、手首などをバラバラにし、それぞれ別々に公家の屋敷に届けたり、門前に掲げたり」していたそうだ。

まあ、これが有名な「天誅」ってやつなのだが、現代の感覚で見ると、その行為はイスラム国も真っ青の残虐さであり、著者がいうように「人道に対する罪」を犯しているとしか思えない。

しかも、目的が政治的で、暴力と恐怖によってこれをなしとげようとしていたのだから、「テロ」と呼ぶのも同意せざるをえないだろう。

~中略~

しかも、あの名高い松下村塾は「師が何かを講義して教育するという場ではなく、よくいって仲間が集まって談論風発、『尊皇攘夷』論で大いに盛り上がるという場であった」らしい。

ちょっと長州ディスがすぎる感じもしなくもないが、しかし、今、常識になっている長州=近代化の礎論は、勝った側がつくりだした歴史であることは間違いない。

「歴史は勝者が決める」というが、おそらく、最終的に幕府と薩摩が手を結び、長州が敗れていれば、長州は後世までテロリスト扱いされ続けた可能性はあるだろう。

だが、結局、長州は勝って官軍となり、明治政府の要職をしめた。そして、以降も政府や陸軍の実権を握り続けた。

そう考えると、たしかにこの長州のDNAは、安倍首相をはじめとするその末裔(を自負する者)に受け継がれているといってもいいかもしれない。

彼らはそろいもそろって「維新」という言葉を好み、ナショナリズムで荒くれ者たちを鼓舞し、歴史を自分たちの都合のいいように書き換え、「積極的平和主義」という言葉で戦争を始めようとしている。

それは、「尊王攘夷」という言葉で権力を奪取し、「近代化」の名目で日本を帝国主義的侵略戦争に駆り立てていった長州、明治政府とそっくりではないか。

安倍首相は著書『美しい国へ』(文春新書)で、政治家としての志について、こう書いている。

〈「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば千万人といえども吾ゆかん」──わたしの郷土である長州が生んだ秀才、吉田松陰先生が好んで使った孟子の言葉である。自分なりに熟慮した結果、自分が間違っていないという信念を抱いたら、断固として前進すべし、という意味である。〉

いやいや、後生だから、あらぬ方向に勝手に進まないでくださいよ!

(宮島みつや)

確かにNHK大河はクソである

NHKの大河ドラマは脚色が酷すぎて、歴史を学ぼうとする姿勢がある者にとっては見るに堪えないので私はほとんど見ない。

はっきり言って大河は大嫌いだ。

特にフィクションとして視聴者を喜ばせる為に、「英雄」の虚像を作り上げ「一人の英雄の存在によって歴史は変わった。他は雑魚多数。」という構成が大嫌いなのである。

歴史とは一人の「英雄」によって作られる物ではなく、連綿と続いてきたある時代の国家や民族の背景により、必然的に歴史を変える流れが湧き起こり、その中でも運良く生き残り、結果として歴史に名を残した人物が「英雄」として取り上げられるだけである。

関が原の戦いで東軍の徳川家康が勝利し、豊臣政権時代に作られた仕組みを引き継ぐ形で江戸幕府による幕藩体制が確立された。

この戦いで敗れた西軍側についた多くの大名が領地替えや減封の憂き目に遭った為、特に西国の外様大名達は幕府に対する遺恨を残しつつ幕末にまで至るのだが、仮に関が原で家康が敗れ、豊臣政権が続いていたとしても幕府が西国に置かれていただけで幕藩体制の基礎は変わらなかっただろう。

明治維新は欧米列強のアジアへの進出によって日本国内の政情が脅かされて起きたものであり、仮に関が原で西軍が勝ち(実際には有り得ない事である)、幕府が西国に置かれていたとしたら、東北の雄である伊達仙台藩あたりが幕末期に立ち上がっていたかも知れない。

実際には江戸から遠く離れ、幕府に深い恨みを持った長州藩が蜂起したのであるが、これは地政学的な要件やそれまでの歴史的経緯を考えれば幕末期においては必然であったと思われる。

加えて「富国強兵」政策も何も明治政府の専売特許ではなく、確かに幕府側にも同様の政策はあった。

小栗忠順と西洋式造船所

宮島みつやは

「長州藩」は幕末を描いた歴史ノンフィクション、小説などでも常に、明治維新の立役者であり、日本の近代化の礎を築いた存在として描かれてきた。薩長による維新が達成されなければ、日本は江戸の封建体制のまま、欧州列強にのみこまれ、植民地にされていたであろう――こうした説を、多くの人が今も信じているはずだ。

と言いながら

そう考えると、たしかにこの長州のDNAは、安倍首相をはじめとするその末裔(を自負する者)に受け継がれているといってもいいかもしれない。

彼らはそろいもそろって「維新」という言葉を好み、ナショナリズムで荒くれ者たちを鼓舞し、歴史を自分たちの都合のいいように書き換え、「積極的平和主義」という言葉で戦争を始めようとしている。

それは、「尊王攘夷」という言葉で権力を奪取し、「近代化」の名目で日本を帝国主義的侵略戦争に駆り立てていった長州、明治政府とそっくりではないか。

などとしているのだが、列強に対抗する為に富国強兵を目指そうとしていたのは薩長と対立していた幕府も同様であり、清国の惨状を踏まえた当時の日本にとってそれがベストな選択肢だったからだ。

地方分権の封建体制では列強と渡り合えないのは明白であり、歴史は明治維新へと動いたのである。

更に日本が大陸へ進出せざるを得なかったのも、ロシアの脅威に対抗出来ない不安定な朝鮮半島の情勢によるものである。

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これは明治政府が政権を掌握していようがいまいが変わらない地政学的な要件である。

地方分権の幕藩体制下では実現出来なかったであろう事だが、大きな方向性は幕府も明治政府も変わらない。

宮島みつやは当時の世界と日本を取り巻く情勢を完全に無視しつつ、明治政府と安倍晋三を感情論でディスっているのだ。

時代の相対性を黙殺する宮島みつや

さて、本題に戻るが、長州藩の残虐性を取り上げて明治政府や安倍晋三を徹底的にディスっている宮島みつやである。

「リテラ」は是が非でも安倍晋三をディスりたいメディアであるからいつもこの調子なのだが、それゆえに論理的にイカれている部分が多いのが常である。

『明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~』のなかで取り上げられている長州藩士の行為であるが、これらは今更どうのこうのと言うまでも無く、歴史的な事実としては割と良く知られているのではないかと思う。

確かに長州藩士の暗殺行為は「テロ」であり、その残虐性は現代日本人から考えれば目を覆いたくなるような内容である。

ところが、幕府側の対「テロ」取り締まりはどうだっただろうか?

尊王攘夷派の取締りで有名なのは「新撰組」であるが、彼らも同様に残虐な手口で敵対勢力を殺害し、時には「新撰組」内部や、尊攘派志士には関わりの無い民間人をも殺害している。

尊攘派志士も新撰組も血気盛んな若い下級武士出身の者や、武士ではない身分の者が多かった事がその残虐性に拍車を掛けたであろう事は想像出来るが、江戸時代の刑罰を考えれば決して常軌を逸するほどのものではない。

江戸時代の刑罰には、良く知られている切腹や打ち首、獄門(晒し首)があるが、それ以外にも更に残虐な刑罰もある。

刑罰の一覧 ウィキペディア

磔刑

江戸時代の日本の磔は親殺し犯、主人殺し犯などに適用される、通常の死刑より一等重い刑罰であった。

十字架上の受刑者の脇腹を槍で突いた後、そのまま肩口から突き出すまで刺し貫くのが作法である。左右の脇腹から反対の肩先に向けて交互に串刺しにして繰り返す。

ニ~三回突かれると受刑者は絶命するが、かまわず二十数回突く。最後にとどめ衝きとして咽頭部を突いて刑が終了する。

刑後に晒されている死体を西洋人が撮影した写真が残されている。女性用は十字型、男性用はキの字型の柱を用い、男性は開脚状態で処刑される。

出血と外傷性ショックによる死となり、最初の数回は体を貫通される苦痛を味わうため斬首などより苦痛は大きいといえる。

釜茹で

受刑者を大釜に入れて茹で、煮殺す刑。日本では石川五右衛門の釜茹が有名(石川五右衛門の場合は、実際は湯ではなく油が用いられたので「釜炒りの刑」ともよばれる)。

古代中国では烹煮(ほうしゃ)と呼ばれる釜茹でが盛んに行われた。水だけでは無く油で揚げる刑もあった。

つまり、長州藩士が取り立てて残虐非道であったというわけではないのである。

では、江戸時代の日本人全体が残虐だったのだろうかと言えばそれも違う。

日本以外の地域で近世以降に行われている刑罰は更に残虐である。

鋸挽き

西洋においてはオリエントから地中海世界の広い地域で古代より行われていた。西洋における鋸挽きの特徴として、人体を縦方向に垂直に切断する手法が挙げられる。

長時間に亙り甚大な苦痛を伴い、切断というよりも肉を挽きちぎられる激痛を長時間延長させる手法は、後述の「刃物などで人体を切り刻む方法」に属するといえる。

ローマ皇帝のディオクレティアヌスは、キリスト教徒を逆さ吊りした常態で、股から縦に鋸でひき殺した。

逆さ吊り状態で執行されると頭部に血流が滞留するため、痛覚は鋭敏に感じるが出血は抑えられる。へその辺りまで切られても意識があるという。一方、速やかな死を与える場合、頭頂部から切断したケースもある。

また、縦方向ではなく腹部・腰部を横方向に切断する方法も記録に残っている(古代中国における「腰斬」を鋸で執行したような形式)。

時代が下ってナポレオン・ボナパルトの遠征の折、カタロニアのパルチザンが、フランスの兵士を多数、鋸挽きに処した。

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凌遅刑

剥皮(かわはぎ)、抽腸(はらわたの抉り出し)、烹煮(かまゆで)等と共に中国で行われた処刑法の一つ。

小刀などで受刑者の肉を少しずつ削ぎ落とし、各部位を切り離したりして長時間苦痛を与えた上で殺す刑。

はじめに手足の肉を削がれ、切断されたのちに胸(乳房)や腹の肉を削がれ、内臓を抉り出されることもある。執刀回数(肉を削ぐ回数)や切除・摘出する順番などが細かく定められている。

中国では清の滅亡直前まで行われ、公開処刑で行われたため、清末期に、刑の執行写真が西洋人向けに絵葉書として売られたものが現存している。

また、削がれた肉は漢方薬として売られて食べられていたといわれる。

殺害せず、命に関わらない部位だけを切断するような場合もある(四肢切断し、止血して手足のない状態で生かすなど)。

また斧などで四肢部分を少しずつ輪切りにする処置方法もある。

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イングランドの叛逆者に行われる処刑は、まず絞首(hang)するが、絶命する直前に放し、解体台に移した後に内臓の抉り出し(drawn; 生殖器の切除、腸の抜き取りなど腹部の臓器を摘出、摘出した臓器や肉片を火にくべる描写や記録が残っている。

腸抜きは前述のウインチ巻取りが応用され、その他腎臓・膵臓・肝臓・脾臓・胃などが切除摘出され、最後は心臓を摘出される)が行われ、十分に苦痛を与えた後に首を刎ねられ(この時点で受刑者は絶命)、最後に屍体を4つに分断し(quartered)、城門の各所に晒すというものだった。

この方法は首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑(hang, drawn and quartered)とも呼ばれ、ウィリアム・ウォレスやジャコバイトの叛乱分子、爆破未遂事件で有名なガイ・フォークス等がこの方法で処刑された。

刑罰名称になっている「四つ裂き」の部分は、絶命後の処置方法であり、死後の付加刑(不名誉刑)の一種であり、本刑罰の残虐性と苦痛の本質は、2段階目の「内臓摘出」がメインであることに注意を要する。

エドワード一世の時代から本格的に用いられ、18世紀末まで反逆罪に対する極刑として君臨し、刑の詳細な様相・手順が比較的明瞭に記録に残っているとされる。

凌遅と並び、人類史上における最も残虐・非人道的な刑罰であるといえる。

これらの刑罰の共通点として、人体を生きたまま解剖し細かな部位ごとに切除する点が挙げられ、こうした処刑方法を総称して「解体刑」と呼ばれることがある。処刑方法の中でもとりわけ残虐性・猟奇性の強い方法として後世に悪名を残しているといえる。

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このように見ていくと、近世以降の日本人が世界的な標準と比較すると特別に残虐であったわけではない事が分かる。

一方で現在に目を移すと、例えばイスラム国の残虐性は現代においては世界の標準から大きくかけ離れたものであり、非難は免れようが無い。

「前近代的」な残虐非道な行いである。

さて、ここで話を宮島みつやに戻そう。

彼は長州藩を「残虐非道」とディスっているのだが、確かに現代人の価値観で見れば彼らの「前近代的」な残虐非道な面を含む。

しかし、それは現代ではなく「前近代的な時代」(歴史学上の前近代ではなく、時代遅れのという意味)に起こっていることである。

つまりは長州藩は左翼が大好きなフレーズである「前近代的な非道な行為」を「前近代」に行っただけである。

宮島みつや「長州藩は酷い奴らだ、前近代的な残虐行為を前近代にはたらいたんだ!」

なるほど、言いたいことは良く分かった。

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