古谷経衡の「自己責任論」批判

古谷経衡がイスラム国による日本人拘束と身代金要求の脅迫に対して湧き上がる「自己責任論」に対して、日本人のメンタリティが中世以前に退行していると批判している。

「自己責任論」で中世に退行する日本 2015年1月25日 3時6分 ヤフーニュース

こういった「自己責任論」には、綺麗なまでに「同胞」という意識が欠如している。

「同じ日本人同胞が、海外で危険に晒されている。

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同じ日本人なら、彼ら助けたい、と思うはずだ」という認識に従って、イスラム国の誘拐犯らは、動画の中で「君たち(日本人)が同胞を救助するために政府に圧力をかけるための残された時間は、72時間だ」と言った。

しかし、当の日本人から返ってきた少なくない反応は、「同胞」という意識を全く欠如した「自己責任論」。この反応は、イスラム国側も想定の範囲外だったのかもしれない。

~中略~

・中世のレベルに退行する同胞意識
「台湾出兵」から100年以上たった現在、近代国家の根本である「同胞」という価値観が全く欠如した「自己責任」を問う世論が、今回の事件を契機に特にインターネット界隈で盛んだ。

「(シリアに渡航した)動機が不純だから、国家は彼らを助ける必要がない」という自己責任論がまかり通るのなら、それはもう「鎖国という祖法を破って、海外に渡航する領民については、何をやっても幕府は捨て置く」という、江戸時代の日本の、中世の世界観と瓜二つである。

実際には、江戸幕府は、「祖法」を破って海外に渡航する日本人については、抜荷(密貿易)の事実がない限りはおおよそ黙認していたが、それと合わせて「出国」した日本人については、当地でどんな目にあおうが原則「黙殺」の態度を貫いていた。「国民国家」という意識の薄い、前近代の中世の国家にあっては、同胞意識は限りなく薄弱だった。「同じ日本人」という概念は限りなく薄いのが「国民国家」が形成される以前の、中世に於ける同胞意識だ。

だから例えば、戊辰戦争で薩摩の藩兵が会津で暴行陵虐の限りを尽くす、という悲劇が平気で起こる。「国民国家」以前の世界には、「同じ同胞の日本人」という意識がきわめて希薄なのだ。

「動機が不純だから、国家が保護する必要はない」という、今回の事件を契機にまたも沸き起こった「自己責任論」は、このような前近代の中世の世界観を彷彿とさせるものだ。

・なぜ同胞意識がなくなったのか
今回の誘拐事件で、「自己責任論」を高らかに言うのは、所謂「保守系」と目されるネット上の勢力が根強い。彼らの言い分は、「国家の税金によって、身勝手な連中を助ける必要はない」という意見に集約されている。

どれほど身勝手で不純な動機だろうと、同胞であるかぎり死力を尽くして助けるのが国民国家の原則であるのは、明治冒頭の台湾出兵の事実で明らかだっただろう。

「自分たちは働いて、まじめに納税しているのだから、”海外で無茶をする連中”を助ける必要など無い」

というのが、彼らの意見である。「納税者でないものは、人に非ず」とでも言いたげな、典型的な「強者」の理屈である。

国家に貢献しないものは、庇護する必要はない―。この考え方を突き詰めれば、例えば生活保護の受給者そのものを蔑視したり、社会的弱者を嘲笑する、という昨今のネット上の風習に行き着く。

ネット上で保守的な見解を表明するクラスタは、大都市部に住む中産階級が多い、というのは、私が実施した独自の調査によって明らかになりつつある。彼らは経済的にも社会的にも「強者」であるがゆえに、「自己責任論」を振りかざして憚りないが、自分がいつでも、不慮の事故や病気で「庇護される側」に回る可能性がある、という想像力を欠いている。

・「自己責任論」で中世に退行する日本
「自己責任論」で中世に退行する日本には、ネット上の保守派が最も重視するはずの「強い日本」とか「強固な国家」という「理想としての美しい日本」が、どんどんと遠ざかっているような気がするのは、気のせいだろうか。当然のことだが、「強い日本」とか「美しい日本」は、彼ら言う「家族のような同胞」の連帯を基礎としているからだ。「自己責任論」はそれに反し、同胞を同胞とも思わない、醜悪な前近代の世界観が支配しているように思える。

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「動機が不純だから」という理由で、かけがえのない同胞の生命の危険を、ヘラヘラと見ているだけの日本人に、良心はあるのだろうか。いつから日本は、「国民国家」という近代国家の根本を排除した、「異形の近代国家」に変質してしまったのだろうか。

涙がでるほど、情けない。

中世以前の日本人には同朋意識が薄かったのか?

彼の主張は中世の江戸時代には国民国家としての意識が希薄だった為に「同胞意識」が弱く、それは近代国家となった明治維新以降に根付いたと言うものである。

それゆえに江戸幕府は鎖国の禁を犯して海外に渡航した者がどのような目に遭おうと黙殺し、幕末の薩摩藩兵による会津における蛮行もこの「同胞意識」の欠如から発したものだと言うのである。

これは日本の幕藩体制がどのようなものであったかを理解していれば思いつかない発想だ。

当時の日本人には今の我々が意識する国家や民族の概念は無かった。

およそ300年間の鎖国を経た幕藩体制下では、ほとんどの日本人は外国というものを意識することが無く、「我ら」と「彼ら」を区別する単位は藩であった。

そんなのは当たり前だ。

日本人以外の人間を知らなければ、自ずと同胞はもっと狭い範囲での共同体の一員となる。

つまりはそれが村や藩であった訳である。

安政の大獄による吉田松陰らの刑死が引き起こしたのは、長州藩士らの強い同朋意識による明治維新である。

因みに明治政府は薩長出身者が中心になって創られた政府であるが、その系譜は連綿と現代にまで続いている。

中世以前にも同胞意識が無かった訳ではないのに、わざわざ江戸時代や幕末の事例を持ち出して日本人には同胞意識が無かったなどとこじつけるのには何か特定のイデオロギーを感じざるを得ない。

しかも、鎖国の禁を犯して渡航した者の安全を守るために幕府が動かないからと言ってそれを同胞意識の欠如と評するのは無理があり過ぎる。

彼らは禁を破って勝手に国を出て行った、つまり自ら同胞である事を捨てた者達だ。

自己責任云々の話ではなく、救出どころか海外に捕縛しに出かけて行って処罰するだけの国力の余裕もなかったのである。

従って中世の日本人には同朋意識が希薄だったとは言えない。

現状の「自己責任論」は同朋意識の欠如がもたらしているものか?

古谷経衡は「保守系」が「自己責任論」を主張し、これは「国家の税金によって、身勝手な連中を助ける必要はない」という意見が集約された結果だ言う。

更には自分がいつでも、不慮の事故や病気で「庇護される側」に回る可能性がある、という想像力を欠いているとまで指摘している。

しかし、「保守系」と呼ばれる人々はそうなる可能性を踏まえて働ける時に目一杯働き、自分の身に何かあっても家族が困らないように無駄になるかもしれない保険料を支払って備えているのである。

さて、我々が同胞と認識すべき範疇の国民はどの範囲までなのだろうか?

国民の価値観は戦後多様化し、現在でもその流れは継続している。

その多様化した価値観の中で「保守系」と呼ばれる人々は「愛国」や「自己責任」というキーワードでまとまっている。

もちろん、公の利益を尊重し自己責任を果たす国民は同胞と意識するだろう。

逆に「国家への責任を果たさない者は同胞と思わない」という部分では古谷経衡の主張は間違ってはいないとも言える。

しかしながら徐々に反日勢力が炙り出されているこの現状で、日本人だから全て同胞であるとは安易に言い難い側面もある。

国民国家の同朋意識とは個人の国家への帰属意識に左右されるものであり、国家への帰属意識が強い者が増えるならば国民の同朋意識は強まる事だろう。

国家に大きな損害を与える可能性がある状況で、敢えて禁を破って危険地帯に足を踏み入れる者に国家への強い帰属意識があるのだろうか?

彼らの行動は江戸時代に鎖国の禁を破って渡航した者と同じく、同胞である事を自ら捨てたと見る事も出来るのではないだろうか?

「保守系」と呼ばれる人々は同胞意識が希薄な訳ではなく、相手が同胞であろうとしているかどうかを見極めているのだと思う。

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