彦根藩主 井伊直弼に見る武士の潔さ

武士道とは江戸時代に官僚たる武士の心構えとして体系化された哲学である。

武士道を端的に表現すれば「他者の為に己が身を捧げる自己犠牲の精神」と言えよう。

日本が明治維新を成し遂げ、大東亜戦争においても白人たちに日本人の意地を見せ、植民地化を防ぐ事が出来たのはひとえにこの「武士道」があったからこそだと私は常日頃から考えている。

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「武士道」は主君に仕える官僚の心構えである為、為政者である藩主の中には浸透しきっていない面もある。

藩主とは「武士道」によって教育された武士たちに命をかけて護ってもらう側の存在だからだ。

しかし、安政の大獄で有名な幕末の大老で彦根藩主の「井伊直弼」は藩主でありながら「武士道」を貫いて生き、そして死んでいった稀有な人物である。

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なぜ井伊直弼がそんな生き様を見せたのか?

それは彼が藩主である井伊直中の14男として生まれ、31歳までは主君ではなく、主君に仕える武士として生きるべく育てられてきたからである。

31歳までの井伊直弼は、彦根城内と城下の境界線に位置する「埋木舎」で不遇の人生を過ごし、「武士たるものはなんぞ」という問いかけに常に心を悩ませながら生きてきた。

埋木舎

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31歳の時に肉親の相次ぐ死によってはからずも世嗣となるチャンスが訪れたが、既に武士として揺ぎ無い価値観を身に付けていた直弼は、藩主になった後も幕府に対し無私の忠義を貫く事となる。

武士としての直弼の思想は「幕府権力強化による国家の難局の打開」であった。

その頑な思いが「安政の大獄」につながり、彼の命を奪う結果となるのだが、最近の研究では「安政の大獄」の量刑は直弼の独断では決してなく、直弼が自分の想定していた量刑を上回る裁定を評定所が出したとされている。

つまり、井伊直弼が泥を被ったと言う事になるのだが、この裁定が攘夷派の不満を一気に噴出させ、桜田門外の変で井伊直弼は暗殺される事となる。

因みに暗殺実行犯である水戸浪士らの襲撃の危険性は事前に幕府に察知されていたが、井伊直弼は幕府の古くからの格式を乱す事を嫌い、特段の警備を付けることをしなかった。

格式を守り、古い幕府の体制を復活させる事で幕府権力強化をはかろうとした直弼にとってはこれは譲れぬ問題であり、それが適わなかった時には自分の命ともども幕府の命運も尽きると考えていたようである。

直弼の死によって幕府は大きく力を失い、明治維新向かって進んでいく事になるのだが、その直弼の行動がその後の無駄な争いを防いだとも考えられる。

誠に潔い生き様、死に様である。

日本人は今まさに歴史を学ぶ事ではなく、歴史から生き方を学ぶべき時に来ているのではなかろうか?

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